2006年11月01日

「反語的精神」

 心をざわめかせるニュースに接することが、最近ますます増えている。だからというわけでもないのだが、林達夫の文章をまた読んでいる。電車の中でちびちびと読んでいるのだが、ちょっとした表現のはしばしに、うならされる。以下に、1年ほど前に書いた文章を掲げておこう。




林達夫『歴史の暮方 共産主義的人間』(2005、中央公論社〈中公クラシックス〉)

 林達夫の評論集2冊が、1冊にまとまって「中公クラシックス」から出た。林達夫の文章に接したのは、先輩に薦められて岩波文庫の『林達夫評論集』を読んだときだから、高校1年の頃だろう。以来、特にこの2冊を何度か繰り返し読んでいる。
 たとえば「歴史の暮方」という短い文章には、自分の心境を言い当てられたような気がしたものだ。

 「流れに抗して、溺れ死することに覚悟をひそかにきめているのである。……みんなどうかしているのだ。(あるいはこちらがどうかしているのかも知れない。)……私のほうが正しいとか節操があるとかいうのでは断じてない。ありのままの人間とは、だいたいそんなものかも知れないと思わぬでもない。それを愛することがどうしてもできないのだ。それと一緒になることがどうしてもできないのだ。偏狭なこの心持がますます険しくなってゆくのを、ただ手を拱ねいて眺めているばかりである」(p.22)

 そして「反語的精神」に示された「反語家」の姿は、いまでも自分の知的ありようの理想である。理想であるということは、つまり実現できていないということでもあるが。

 「自由なる反語家は柔軟に屈伸し、しかも抵抗的に頑として自らを持ち耐える。真剣さのもつ融通の利かぬ硬直に陥らず、さりとて臆病な順応主義の示す軟弱にも堕さない」(p.226)

 このあとに続く一段落を読んでどきりとした。『ロシア・アニメ』を書いたとき、ツェハノフスキーというアニメ作家に1章を割いたのだが、最後に『野の白鳥』というアニメのあるせりふを取り上げて締めとしている。紙幅の都合で議論は展開していないのだが、問題にしたかったのは、まさにここで林達夫が論じている「反語家の陥穽」のことだった。この問題は、エイゼンシュテイン論にもつながる。私が亀山郁夫『磔のロシア』のエイゼンシュテイン論に感じる物足りなさも、亀山論文がこの問題に迫れていないことからくるのだと思う。
 実は、この問題を考えているとき、すっかり林達夫の「反語的精神」のことは忘れていたのだが、再読して自分が林達夫の掌の上で踊っているに過ぎないことを思い知らされて、どきりとした次第。若いときの読書は、思考の血肉となることを改めて痛感した。
 というわけで、若い人にもぜひ読んでもらいたい。
posted by 井上 徹 at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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