2006年11月03日

シーロフさんのこと

 昨日、児島宏子さんの本を紹介したので、今度は訳書を紹介しておこう。というより、本当は著者レフ・シーロフさんという人を知っていただきたいと思うのだ。以下、書評として書いたもの。




レフ・シーロフ(児島宏子訳)『モスクワは本のゆりかご』(2005、群像社)

 街をよく知る人と散歩するのは楽しい。建物や通り、公園、ときには道端にさりげなく置かれたベンチでさえもが、豊かな物語をはらんでいることに気づかされる。そんな散歩の後では、何気なく見てきた風景が表情を変え、すでに聞いた話以外にも何かを語りたがっている顔つきに見えてくる。風景には空間と時間の4つの次元だけでなく、「記憶」というもう1つの次元があるのだ。

 『モスクワは本のゆりかご』は、そんなモスクワの記憶の次元を、私たちに開いて見せてくれる。著者レフ・シーロフの名前は、本書のもととなったNHKの語学テキストでの連載を読んでいた人を除けば、日本ではほとんど馴染みがないだろうが、作家の肉声の古い録音を復元したり、自らも同時代の作家たちの声を記録し続けた人だ。オクジャワの歌も、非公開のものも含めて記録を残し、後にレコードやCDで自由に出せるようになったとき、その録音が貴重な音源として活用されている。その意味では、日本でも少なからぬ人びとが、知らないうちにシーロフさんのお世話になっているはずだ。

 この本にはゴーゴリやプーシキンも登場するが、主役は圧倒的にロシア革命後、ソ連で活動した詩人や作家たち。作家として誠実に活動するということは、すなわち当局からにらまれるということでもあったから、ここに開示される記憶は、痛みに満ちている。著者は、19世紀の作家も含め、その痛みを分かち合いながら、さまざまなエピソードを語っていく。例えば『私は二十歳』(マルレン・フツィーエフ監督)という映画のために開催された技術工科大学での詩の朗読会にしても、それがいかなる緊張感のなかで開催され、聴衆へのメッセージがいかにして発せられたかが、生き生きと描き出される。詩の朗読がいかにして重い意味を持つか、そして原稿や活字だけでなく音や映像での記録がいかに重要かを私たちは知ることになる。

 シーロフさんと初めてお会いしたのは、1992年10月のことだ。シーロフさんらが蝋管に記録された文豪トルストイの肉声を復元したことが縁で、当時NHKの音声技術者だった増田康雄さんが夫妻を日本へ招待した。そのとき私も都内見物に同行し、エイゼンシュテイン・シネクラブの例会にも登場していただいた。その後、モスクワのお宅に厄介になったり、ペレデルキノにチュコフスキイ博物館が出来てからは、そこで静かで豊かな時間を過ごさせていただいたりもした。そのお話の面白さと懐の深い包容力には、ロシア・インテリゲンツィヤの確かな伝統と、それが生み出す知性の高みを知る思いがした。

 もはやそのお話を生で聞くことはかなわないが、そのエッセンスの詰まった本書が登場したことは喜ばしい。小ぶりの独特の判型だが、いっそのことポケットに入るサイズでもよかったかもしれない。街歩きの友としたいような本だ。本書を一人でも多くの方が手に取り、この20世紀ロシア文学の語り部の素晴らしい魂にふれられることを切に願う。

初出 『日本とユーラシア』2006年2月号
posted by 井上 徹 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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