昨日、児島宏子さんの本を紹介したので、今度は訳書を紹介しておこう。というより、本当は著者レフ・シーロフさんという人を知っていただきたいと思うのだ。以下、書評として書いたもの。
●レフ・シーロフ(児島宏子訳)『モスクワは本のゆりかご』(2005、群像社)
街をよく知る人と散歩するのは楽しい。建物や通り、公園、ときには道端にさりげなく置かれたベンチでさえもが、豊かな物語をはらんでいることに気づかされる。そんな散歩の後では、何気なく見てきた風景が表情を変え、すでに聞いた話以外にも何かを語りたがっている顔つきに見えてくる。風景には空間と時間の4つの次元だけでなく、「記憶」というもう1つの次元があるのだ。
『モスクワは本のゆりかご』は、そんなモスクワの記憶の次元を、私たちに開いて見せてくれる。著者レフ・シーロフの名前は、本書のもととなったNHKの語学テキストでの連載を読んでいた人を除けば、日本ではほとんど馴染みがないだろうが、作家の肉声の古い録音を復元したり、自らも同時代の作家たちの声を記録し続けた人だ。オクジャワの歌も、非公開のものも含めて記録を残し、後にレコードやCDで自由に出せるようになったとき、その録音が貴重な音源として活用されている。その意味では、日本でも少なからぬ人びとが、知らないうちにシーロフさんのお世話になっているはずだ。
この本にはゴーゴリやプーシキンも登場するが、主役は圧倒的にロシア革命後、ソ連で活動した詩人や作家たち。作家として誠実に活動するということは、すなわち当局からにらまれるということでもあったから、ここに開示される記憶は、痛みに満ちている。著者は、19世紀の作家も含め、その痛みを分かち合いながら、さまざまなエピソードを語っていく。例えば『私は二十歳』(マルレン・フツィーエフ監督)という映画のために開催された技術工科大学での詩の朗読会にしても、それがいかなる緊張感のなかで開催され、聴衆へのメッセージがいかにして発せられたかが、生き生きと描き出される。詩の朗読がいかにして重い意味を持つか、そして原稿や活字だけでなく音や映像での記録がいかに重要かを私たちは知ることになる。
シーロフさんと初めてお会いしたのは、1992年10月のことだ。シーロフさんらが蝋管に記録された文豪トルストイの肉声を復元したことが縁で、当時NHKの音声技術者だった増田康雄さんが夫妻を日本へ招待した。そのとき私も都内見物に同行し、エイゼンシュテイン・シネクラブの例会にも登場していただいた。その後、モスクワのお宅に厄介になったり、ペレデルキノにチュコフスキイ博物館が出来てからは、そこで静かで豊かな時間を過ごさせていただいたりもした。そのお話の面白さと懐の深い包容力には、ロシア・インテリゲンツィヤの確かな伝統と、それが生み出す知性の高みを知る思いがした。
もはやそのお話を生で聞くことはかなわないが、そのエッセンスの詰まった本書が登場したことは喜ばしい。小ぶりの独特の判型だが、いっそのことポケットに入るサイズでもよかったかもしれない。街歩きの友としたいような本だ。本書を一人でも多くの方が手に取り、この20世紀ロシア文学の語り部の素晴らしい魂にふれられることを切に願う。
初出 『日本とユーラシア』2006年2月号
2006年11月03日
2006年11月02日
ノルシュテインあれこれ
ユーリー・ノルシュテインのアニメーション(2006年11月末までYahoo!動画で無料配信中、DVDは2007年1月に廉価盤が再発予定)については、もはや多言を要すまい。私自身も『アートアニメーションの素晴しき世界』や『ロシア・アニメ』、その他で文章を書いてきた。
思い返せば一昔前、1993年にエイゼンシュテイン・シネクラブで企画した国際シンポジウムで日本に招いたときは、まだ知る人ぞ知るという感じだった。ただ、当時すでにアニメーターの間ではよく知られていて、1994年に開催したワークショップには、すでにプロとして活躍している人も含むアニメーターたちが受講生として並んでいて、主催したこちら側が驚いたものだ。
その頃から通訳としてノルシュテインの日本におけるパートナーとして活躍を続け、絵本(『きりのなかのはりねずみ』、『きつねとうさぎ』、『アオサギとツル』)をはじめとするノルシュテイン関係の本の翻訳にも携わってきた児島宏子さんが、ノルシュテインのアニメーションについての本を書いている。
●児島宏子『アニメの詩人ノルシュテイン 音・響き・ことば』(2006、東洋書店〈ユーラシア・ブックレット〉)
ノルシュテイン作品の背後には、世界中の美術、文学、音楽などの広大な宇宙が広がっていることが、監督作品6本に即して説明されていく。語りたいことが多すぎるせいか、説明が舌足らずな部分がなくもないが、ノルシュテインの作品世界に魅せられた人にとって、その奥深さを知るための手頃なガイドとなるだろう。
思い返せば一昔前、1993年にエイゼンシュテイン・シネクラブで企画した国際シンポジウムで日本に招いたときは、まだ知る人ぞ知るという感じだった。ただ、当時すでにアニメーターの間ではよく知られていて、1994年に開催したワークショップには、すでにプロとして活躍している人も含むアニメーターたちが受講生として並んでいて、主催したこちら側が驚いたものだ。
その頃から通訳としてノルシュテインの日本におけるパートナーとして活躍を続け、絵本(『きりのなかのはりねずみ』、『きつねとうさぎ』、『アオサギとツル』)をはじめとするノルシュテイン関係の本の翻訳にも携わってきた児島宏子さんが、ノルシュテインのアニメーションについての本を書いている。
●児島宏子『アニメの詩人ノルシュテイン 音・響き・ことば』(2006、東洋書店〈ユーラシア・ブックレット〉)
ノルシュテイン作品の背後には、世界中の美術、文学、音楽などの広大な宇宙が広がっていることが、監督作品6本に即して説明されていく。語りたいことが多すぎるせいか、説明が舌足らずな部分がなくもないが、ノルシュテインの作品世界に魅せられた人にとって、その奥深さを知るための手頃なガイドとなるだろう。
2006年11月01日
「反語的精神」
心をざわめかせるニュースに接することが、最近ますます増えている。だからというわけでもないのだが、林達夫の文章をまた読んでいる。電車の中でちびちびと読んでいるのだが、ちょっとした表現のはしばしに、うならされる。以下に、1年ほど前に書いた文章を掲げておこう。
●林達夫『歴史の暮方 共産主義的人間』(2005、中央公論社〈中公クラシックス〉)
林達夫の評論集2冊が、1冊にまとまって「中公クラシックス」から出た。林達夫の文章に接したのは、先輩に薦められて岩波文庫の『林達夫評論集』を読んだときだから、高校1年の頃だろう。以来、特にこの2冊を何度か繰り返し読んでいる。
たとえば「歴史の暮方」という短い文章には、自分の心境を言い当てられたような気がしたものだ。
「流れに抗して、溺れ死することに覚悟をひそかにきめているのである。……みんなどうかしているのだ。(あるいはこちらがどうかしているのかも知れない。)……私のほうが正しいとか節操があるとかいうのでは断じてない。ありのままの人間とは、だいたいそんなものかも知れないと思わぬでもない。それを愛することがどうしてもできないのだ。それと一緒になることがどうしてもできないのだ。偏狭なこの心持がますます険しくなってゆくのを、ただ手を拱ねいて眺めているばかりである」(p.22)
そして「反語的精神」に示された「反語家」の姿は、いまでも自分の知的ありようの理想である。理想であるということは、つまり実現できていないということでもあるが。
「自由なる反語家は柔軟に屈伸し、しかも抵抗的に頑として自らを持ち耐える。真剣さのもつ融通の利かぬ硬直に陥らず、さりとて臆病な順応主義の示す軟弱にも堕さない」(p.226)
このあとに続く一段落を読んでどきりとした。『ロシア・アニメ』を書いたとき、ツェハノフスキーというアニメ作家に1章を割いたのだが、最後に『野の白鳥』というアニメのあるせりふを取り上げて締めとしている。紙幅の都合で議論は展開していないのだが、問題にしたかったのは、まさにここで林達夫が論じている「反語家の陥穽」のことだった。この問題は、エイゼンシュテイン論にもつながる。私が亀山郁夫『磔のロシア』のエイゼンシュテイン論に感じる物足りなさも、亀山論文がこの問題に迫れていないことからくるのだと思う。
実は、この問題を考えているとき、すっかり林達夫の「反語的精神」のことは忘れていたのだが、再読して自分が林達夫の掌の上で踊っているに過ぎないことを思い知らされて、どきりとした次第。若いときの読書は、思考の血肉となることを改めて痛感した。
というわけで、若い人にもぜひ読んでもらいたい。
●林達夫『歴史の暮方 共産主義的人間』(2005、中央公論社〈中公クラシックス〉)
林達夫の評論集2冊が、1冊にまとまって「中公クラシックス」から出た。林達夫の文章に接したのは、先輩に薦められて岩波文庫の『林達夫評論集』を読んだときだから、高校1年の頃だろう。以来、特にこの2冊を何度か繰り返し読んでいる。
たとえば「歴史の暮方」という短い文章には、自分の心境を言い当てられたような気がしたものだ。
「流れに抗して、溺れ死することに覚悟をひそかにきめているのである。……みんなどうかしているのだ。(あるいはこちらがどうかしているのかも知れない。)……私のほうが正しいとか節操があるとかいうのでは断じてない。ありのままの人間とは、だいたいそんなものかも知れないと思わぬでもない。それを愛することがどうしてもできないのだ。それと一緒になることがどうしてもできないのだ。偏狭なこの心持がますます険しくなってゆくのを、ただ手を拱ねいて眺めているばかりである」(p.22)
そして「反語的精神」に示された「反語家」の姿は、いまでも自分の知的ありようの理想である。理想であるということは、つまり実現できていないということでもあるが。
「自由なる反語家は柔軟に屈伸し、しかも抵抗的に頑として自らを持ち耐える。真剣さのもつ融通の利かぬ硬直に陥らず、さりとて臆病な順応主義の示す軟弱にも堕さない」(p.226)
このあとに続く一段落を読んでどきりとした。『ロシア・アニメ』を書いたとき、ツェハノフスキーというアニメ作家に1章を割いたのだが、最後に『野の白鳥』というアニメのあるせりふを取り上げて締めとしている。紙幅の都合で議論は展開していないのだが、問題にしたかったのは、まさにここで林達夫が論じている「反語家の陥穽」のことだった。この問題は、エイゼンシュテイン論にもつながる。私が亀山郁夫『磔のロシア』のエイゼンシュテイン論に感じる物足りなさも、亀山論文がこの問題に迫れていないことからくるのだと思う。
実は、この問題を考えているとき、すっかり林達夫の「反語的精神」のことは忘れていたのだが、再読して自分が林達夫の掌の上で踊っているに過ぎないことを思い知らされて、どきりとした次第。若いときの読書は、思考の血肉となることを改めて痛感した。
というわけで、若い人にもぜひ読んでもらいたい。
